トルソ






彼の世界は完璧だった。
必要な物は全て揃い、彼は彼の研究に没頭する毎日。
人間らしい感情を封じ込めた、まるで人形の如くに美しい彼を人は腫れ物に触るように扱った。
傲慢でエゴイスト。
そう評される彼が、嘗てただ一人の為に感情をむき出した事があるのを知っているのは古い知人達だけで、けれどその古い知人達とも最近は交流がない。
その彼の世界はこの先も変わらないはずだった。
心の奥深く、閉じ込めた十代の終わりの輝き――彼によると一生分の夢、彼のファム・ファタル――が不意に現れるまでは。

『アルディ博士、緊急要請です』

彼の日常を壊す、それは一本の電話から始まった。




ルーヴル美術館に於いて、警察に追われた窃盗犯が侵入。
幸いすぐに捕らえられたが観光客と思われる日本人女性が腹部を撃たれ、負傷。
彼女の所持品に奇妙な物が発見された為、シャルル・ドゥ・アルディへの治療要請となったらしい。
その奇妙な所持品は一通の書類だった。

解剖同意書

素っ気無く書かれたそれは彼女の持っていたバッグの底にあったと言う。
署名には紛れも無く、彼の名前とそれに並んで彼女の名前が記されていた。

「……マ……リナ……」

ストレッチャーに乗せられて運ばれてきた姿を一目見て、彼は呻くようにその名を呼んだ。
腹部から多量の出血。
彼女の体内には銃弾が残っており、一刻も早い摘出手術と輸血が必要だった。

「オレが、やる」

呟くような力弱い声。
その場に居合わせた他の医師達は己の目と耳を疑わずにいられなかったと言う。
今ここに居るのは本当にあの、シャルル・ドゥ・アルディなのかと。
満ち溢れた自信も傲慢も、不遜も。何もかもが無かった。
そこにあったのは、天才でも何でもない、ただ一人の青年の姿だった。
稚ささえ感じさせる日本人女性の身体にメスを走らせる動作は慎重で、今までのどの手術よりも丁寧に行われ、後に語り草になったと言う。
それが、二人の再会の瞬間だった。




取材の名目で久々に訪れたパリは、夏を迎えようとしていた。
パリの人々は避暑の名目で姿を消し、目立つのは観光客だけと言う有様に苦笑する。
最後に訪れたのは七年も前になるだろうか。

「ああ、でも七年前は逃亡生活だったわね」

外見も能力も、何もかもが完璧な人を思い出す。
今も大して変わっていないが、あの頃は言われたい放題言われながらも充実していた。
七年。
この時間は長かったのか、短かったのかマリナには分からなかった。
ただ一つだけ分かっているのは、昔のように気軽に彼に会いに行ってはいけない事。
人は変わる。
七年の間に彼女は多少のヒット作を持つ漫画家になったし、あんなにも惹かれた相手を失っても居た。

『……あいつは、こんなにもお前に影響を与えたんだな』

少女漫画から路線を変えた彼女が売れ始めた時、それを読んだ和矢が呟いた言葉を今でも忘れていない。
自分を手放した時のシャルルの言葉も。
だから、会ってはいけないと理解していた。思い出の地に行く事もやめようと。
けれども小さな旅行鞄一つとスケッチブックを持って成田を発つ時にどうしても見たいと思った物があった。
―――愛にささげるトルソ。
フランスが世界に誇る天才、シャルル・ドゥ・アルディの手になるそれがルーヴル美術館に展示されていると聞いたのは三年前だったか。
わざわざ国際電話をかけてきたのは誰あろう、かのカミーユ・レールミットだった。
いわく、所有権があるのはシャルルとマリナだが、シャルルは引き取らない意思を示したらしい。
君はどうする?と聞かれたマリナはカミーユに任せると答えたのだ。
しばらく考えた様子の彼は、電話口で細く長い息を吐き出し、分かったと答えた。

『あのトルソはルーヴルに展示する。所有権は君にあるから、引き取りたいと思ったら連絡をくれ』

そうしてこう付け加えてもくれたのである。

『もし君がパリに来て、あの像を見たくなったらこの番号に掛けてくれれば無料で入館できるように手配するから』

思い立ったら即実行が彼女のモットーだったから、シャルル・ド・ゴール空港に降り立ってすぐ、カミーユに電話を入れた。
彼は久し振りの電話を喜び、約束どおりにルーヴルのフリーパスを用意してくれ、おまけに食事まで奢ってくれるという大盤振る舞いだった。
思ったよりも食べなかったなと揶揄うように言われ、子供のように不満に頬を膨らませてしまった事まで思い出して、思わず苦い顔になる。

(だって仕方ないじゃない、時差でボケてた上に久し振りの再会で浮かれてたんだもの)

自分にそう言い訳して気を取り直し、彼に教えてもらった通りの順路を辿る。
途中、緑のゲオルギウスの小部屋への入口があった場所を通る時には思わず足を止めてしまったが無理矢理に足を動かした。

(ええと……特別展示室って言ってたっけ……)

どうやら非公式の展示らしく、苦戦しながらも目当ての部屋を見つけ出して入室した途端、マリナは凍りついたように立ち尽くした。
天井のシャンデリアの光を浴び、輝くトルソ。
何度も見た筈なのに、今改めて目の前に現れたそれは激しく彼女の心を揺さぶった。
彼女をモデルに、彼が作り上げた塑像は七年の時を経ても尚、溢れるほどの愛を告げていた。

「……シャルル……」

胸が痛い。
これほどの愛を告げられるような自分ではない事を知っているから余計に辛い、悲しい。

(あたしはこんな愛を貰えるような人間じゃない。自分勝手で、未熟で考え無しのあたしを何であんたは愛してくれたの?)

鈍感で馬鹿で幼かった嘗ての自分を罵ってやりたかった。
なんて愚かだったのだろう。こんなに愛されていた事に、こんなに求められていた事に気付かなかったなんて。
涙が溢れる。
それは感動であり、悔恨であり、そして誓いの涙だった。

(もう二度と会わない。あたしがあたしでいる限り、会ってしまえばまたあんたを傷付けてしまう)

涙でぼやける視界に、けれどしっかりとトルソを映す。

(今度会う時きっとあたしは死体になってるわ、そしたらあんたを傷付ける事もないし、大丈夫よね)

思う存分泣いて部屋を出ようとした、その時だった。
突然、銃を構えた男が逃げ込んできて辺りが騒然とした。

「……何よ、何なのよっ」

その銃口を向けられた時、咄嗟に逃げようとしてはっとする。

(あたしが避けちまったらトルソに当たるじゃないのっっっ)

そう思ってしまったらもう動く事は出来なかった。
銃口は火を吹き、マリナの身体はゆっくりと傾いで行った。
焼けるような熱さが襲い、緩やかに意識が遠くなる。

『たぶん愛は、そのために自分の身にどれだけの犠牲を受け入れられるか、そしてそれをどれほど喜べるかで、計ることができると思うから』

完全にブラックアウトする寸前、彼の言葉を聞いたような気がした。






既に全身麻酔から醒め、今はただ眠るマリナを見下ろす。

『彼女は、逃げようとしたんだそうだ。けれど、振り返って君の作品を見た後、動かなかったらしい』

パリ市警の知人から聞いた言葉が頭を離れなかった。
ルーヴルに展示されている自分の作品。
それが何かなんて、シャルルが忘れるはずはない。
嘗て彼女をモデルに作り上げたトルソ。
彼が持つ全ての愛を捧げた、作品だった。

「……君は、馬鹿だ……」

そしてオレも。
短く呟く。
忘れたはずだった、封じ込めたつもりだった。
けれどもこうして再び彼女の姿を見てしまえば、いとも簡単に息を吹き返してしまう。

「……マリナ」

認めるしかなかった。
かつて彼女に捧げた愛は今も色褪せる事無くこの心に残っている。

『何もかも、君にやる。この世界中でオレが手にできる全部を君に』

あの日の言葉は嘘ではなかった。
今も己に誓って同じ事が言える。

「愛しているよ、マリナちゃん」

やがて目覚めるだろうファム・ファタルに彼は変わらぬ愛を囁いた。